エホバの証人(現役→自然消滅?)ですが、何か!?


by what-tower

<   2008年 02月 ( 4 )   > この月の画像一覧

こんばんは。
深夜の友は真の友。
What-Towerです。

子供の頃『やめられないこと』といえば?

2世ならわかる、

「出版物への落書き」。

これは~やめろったって無理でしょ。

だってね、
あれだけつまらない集会を、
なんとか眠らないように乗り切るには、
「落書き」以外になんの手立てがあるでしょうか!


しかし、いっぱいしたはずの「落書き」も、
なかなか現在まで残っていなかったりします。

その最大の理由は、
親による迫害によって、
その多くが消失してしまっていることがあげられます。

「多くの試練に遭いながら聖書が現代まで残された経緯」
みたいな話になってきました。


What-Towerの手元には、
霊感(冷汗?)を受けて書き記され、
奇跡的に現在まで保存されてきた「落書き」が、
ほんとうに僅かながら残されています。


前置きが長くなりましたが今回は、
「聖書物語」の本の表紙裏の遊び紙に遺された、
What-Tower5歳頃の「落書き」を、
世界初公開致します。

f0129849_016184.jpg


はて?
これはなんでしょう。

「12」という数字と、
ボンボン付きの帽子を被った髭ヅラの人と、
手に持った袋。



ていうか、
「落書き」の多くが消失してしまっている中で、


・妙に陽気なサンタ○ロース。

・いかにも12月が待ち遠しいという構図。


生き残れる要素がゼロです。

しかもエホバの証人の「聖書物語」の本の中です。
何もわかっちゃいません。


なぜこの絵が検閲を免れたのか、
本当に不思議でなりません。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

この絵の発見に基づき、
自分史の訂正を致します。

・What-Tower、20代後半で背教。
         
・What-Tower、5歳で背教。
[PR]
by what-tower | 2008-02-17 00:16 | 落書き博物館 | Comments(18)

言葉の重み。

歌手の倖田来未が自身のラジオ番組で、
「35歳を回ると羊水が腐る」と発言し騒動になっている。

発言の良し悪しや騒がれ方はともかく、
言葉一つが本当に重いものであることを考えさせられた。

対して我らが「ものみの塔」は、
どんな発言でも何故か許される不思議なパワーを持っています。
実に不思議です。

そういえば昨年は、
久間章生防衛相の原爆投下「しょうがない」発言が話題になりました。
結局彼は、「言い方が軽率だった。広島と長崎市民に不愉快な思いを
持たれたことについて、あらためて深くおわびする」と陳謝しています。

ではそろそろ、
我らが無敵の機関紙「ものみの塔」の記事を見てみましょう。


   それは畏怖の念を抱かせる出来事でした。
   1945年8月6日の朝、一つの大都市が一瞬
      にして破壊されたのです。およそ8万人
が死亡し、数万人が致命傷を負いました。大火災
も生じました。このすべては一発の核爆弾によっ
て引き起こされたのです。その大惨事の間、エホ
バの証人はどうしていたのでしょうか。広島には
エホバの証人が一人しかいませんでした。クリス
チャンとしての忠誠のゆえに刑務所に入れられて
おり、防壁に囲われた監房の中にいたのです。刑
務所は崩壊して瓦礫と化しましたが、兄弟にはけ
が一つありませんでした。兄弟は、自ら述べると
おり、原子爆弾によって刑務所から開放されまし
た。これはこの原爆がもたらした唯一の良い
事柄かもしれません。

(塔1995年4月15日号P15)


この研究記事が扱われた当時、
これを読んだ遺族はどう思うのかなと考えたものです。

久間章生防衛相の、

“核爆弾には、
戦争を終わらせるという一つの良いことがあった”


という趣旨の発言がいかに波紋を呼び、
どれだけ遺族を傷つけたでしょうか。

では、

“核爆弾には、
一人のエホバの証人を解放するという一つの良いことがあった”


というこの記事はどうなんでしょうか。

遺族にとっては、
良いことなんてこれっぽっちもないんです。


発言に気を遣い、
弱い立場の人を思いやる記事を書くのが、
「世界で唯一の愛に溢れた真の組織」として、
すべきことなんじゃぁないでしょうか?


そして毎度のことながら、
神慮によって命を失わずに済んだと思わせぶりな書き方。

もうなんでもありです。


こういった無神経な記事とは裏腹に、
成員はけっこう小さな言葉一つで裁かれることがあります。

でも組織は裁かれることはありません。

久間章生防衛相は、
何を言っても言い訳になるといって、
ひたすら陳謝に徹しました。

ものみの塔は、
時々否定的な意見を読者の声に載せますが、
たいていは正当化か言い訳をするばかりで、
ほとんどが「陳謝」とは程遠いものです。


健全な内部批判を容認しない体質は、
組織をどんどんカルト化させ、
成員を苦しめるか、
心を麻痺させます。

どうぞこれ以上、
人々が苦しみませんように。

掲載される無神経な記事の数々を読みながら、
ただただそのことを願います。
[PR]
by what-tower | 2008-02-11 03:10 | 出版物に突っ込み | Comments(23)

純白の時代!?

以前、
『大スクープ!エホバの証人と創価の秘密の関係!』
の記事の中で、
3色の服を着た騎手の挿絵を紹介し、
ものみの塔と創価学会との秘密の関係を暴露し、
各界から大きな反響をいただきました。

これが当時問題となった挿絵です。
f0129849_17261510.jpg
服の色が学会カラーです。

「霊懲り」取材班はその後も調査をすすめ、
まだ学会との関係を持っていない頃の挿絵を発見致しましたので、
ここに報告致します。

f0129849_17174048.jpg
(塔1981年6月1日号P21)

この当時は、
まだ創価学会の手の内にいないことがわかります。

てか。。。

真っ白です。

三色と言わず、
何色にでも塗り放題です!

「PhotoShop」など自在にお使いになれる方は、
どうぞお好みの彩色でお楽しみ下さい。

そして、面白いのができたら、
メールでくださ~い(^Д^)な!
[PR]
by what-tower | 2008-02-08 17:18 | 挿絵に突っ込み | Comments(4)

「神」とは何か。

このテーマについて触れることが、
自分がエホバの証人であることの存在意義を根幹から揺るがす内容であることは、
自分でも重々承知しています。

ですがここで、
普通の日本人よりも多くの時間を、
宗教に捧げ、「神」について考えてきた、
そのことのひとつの区切りとして、
この記事を書かないわけには行きません。

そして、
そろそろ決着をつけるべき時が、
近づいていると感じます。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

先日、未信者の身内を亡くしたばかりの、
エホバの証人家族のお宅に行った。

そのお宅の母姉妹は悲しみの中で、
出版物をたくさん読んで慰めを得たという。
(聖書ではない)

姉妹はなかなかに熱心なJWだが、
“今までエホバを近くに感じたことがなかった”
と言っていた。

“エホバがいることはもちろんわかっていたけれど、
 遠くから見ているだけというような印象だった”

そうだ。

それが過去の「ものみの塔」を調べて、
特に慰めを得た記事があったと言う。
それはこんな内容だ。


あなたは人生の中で、
2、3人の死を見てきたかもしれません。
それはとても悲しい経験だったことでしょう。

ですがエホバは、
これまで何千年もの間、
何億もの人々の死を耐え忍んでこられました。



(何年何月号かとかは言わなかったし聞かなかった。)

“どこか遠い存在だったエホバが、
 今自分と同じ気持ちでいてくださること、
 しかも、もっと大きな悲しみを感じていることを知った時、
 本当に慰められた。”


姉妹はそう語り、
悲しみの中で信仰が深まったような話をしていた。


少し前の自分なら、
この話に素直に同意しただろうと思う。

けれども姉妹のこの話を聞いた時、
ものすごく悲しく感じた。
また同時に、
これこそが、
JWの重大な教義欠陥なのだと確信を深めた。


ラッセルやラザフォードの時代、
「神の御座はプレアデス星団の間にある」
というのがものみの塔の公式教義だったと聞く。
(私はオールド書籍は詳しくないので、
 いつのどの文書に書かれているか指摘できないが、
 深く突っ込みたい人は調べてみて下さい)

もちろん今はそんなウルトラマンチックな教義はないが、
証人達に「神やキリストはどこにいるの?」と尋ねると、
多くの方が、

「物質宇宙の外」

と答える。


場所が移動しているだけじゃん。
「プレアデス星団の間」→「宇宙外」

まぁある意味、
もっと遠くなっちゃったわけだ。


ここでエホバの証人の「神」の存在の意識のおさらい。


神は天(物質宇宙の外)から人間を見ている。
けれども人類の苦しみに無関心ではない。
いやそれ(人間)以上に人類の死を嘆いている。
でもやっぱり遠いところにいる。
肉の体があるように、神は霊的な体で存在。
そして電波を飛ばすようにエネルギー(聖霊)を飛ばして、
ぼくらにチカラをくれる時もある。



JWの「神」概念はこれで間違いないです。
現役バリバリの方も異論ないと思います。


しかしこの「神」への概念こそが、
「神」を教えるはずの宗教(エホバの証人)が、
実はその信者を「神」から引き離し、
「神」を遠い存在と感じさせるものだと悟ったとき、
“この組織は人を真に幸せにはしない”と確信しました。


たくさんの宗教や思想の「神」の概念について語ると、
長ったらしくなるし煩雑になってしまうので、
今回は聖書の中にある「神」についてだけ取り上げます。

結論から言うと、
エホバの証人の「神」のとらえ方は、
非聖書的だということです。


出エジプト記3:14を読んでみましょう。
神は自分の名前(称号)として、
『わたしはなる』(新世界訳)と言っています。
他の翻訳では『わたしはある』という表現が多いです。
ヘブライ語では『エフェ アシェル エフェ』
英語では『I AM』
となります。

『わたしはなる(I AM)』もしくは、
『わたしはある(I AM)』というのは、
「神」は“遍在(どこにでも存在)する”こと、
また“存在する全て”であることを意味する名前(称号)です。

神は「存在するすべて」であるということは、
これだけ聖書にはっきりと書かれていながら、
神をどこか物理的に遠い距離に置いているエホバの証人には、
ちんぷんかんぷんな概念です。

わたしたち人間は、
「時間」や「場所」に縛られています。

エホバの証人も、
「神はそういった物質的な縛りの中にはいない」と言うでしょう。

けれども、
神は「物質宇宙の外にいる」とか、
神は「未来を見通す能力を持っている」という教義は、
それ自体が神を人間の頭で理解できる存在に落としています。
人間に近い空間・時間の中の存在ととらえています。

神は遍在(どこにでも存在)し、
存在する全てであり、
ここにもあそこにも、
What-Towerの中にも、
このブログを読んでいるあなたの中にも、
神はいます。
神は世界に満ちています。

それこそが『I AM』の意味であり、
“YHWH”なる神の神髄と言えます。

神は存在するすべてであって、
最初であり、最後であり(イザヤ44:6)、
現在であり、過去であり、未来である。
前であり後ろ、今で過去で永遠。
神はそのすべてであり、
存在するすべてである。

くどいようですがそれこそが、
『I AM(わたしは在る)』の意味です。

だから、
ローマ11:36にあるように、

すべてのものは[神]から、
また[神]により、
そして[神]のためにある


のではないでしょうか。

「自分」という存在は、
神様が神様自身のために造ってくださったのであり、
そして「自分」は神様のうちにある


そう思うなら本当に幸せな気持ちになりますし、
自分は絶対的な至高者の、
その愛のうちにいるという自信と満足を持てます。


家庭を幸せにしますよ~、
真の神に人を近づけますよ~、
そういう理想高きJWの看板とは裏腹に、
これだけの宗教教育をしておきながら、
うつ病などの精神疾患を患う人が多いのは、
そういう神との絆を感じさせない教義欠陥のせいだと、
個人的には感じています。



ではキリストはどうでしょうか。

キリストは創造者ですし(ヨハネ1:3、ヘブ1:10)、
その「力の言葉によってすべてのものを支え」(ヘブ1:3)、
み使いの一人などではない際立った存在です。

ヨハネ1:10にはこうあります。


 彼は世にいたのであり、
 世は彼を通して存在するようになったのに、
 世は彼を知らなかった。



「彼(イエス)は世にいた」という言葉を、
“遍在(どこにでも存在)する”という概念のないJWが、
どう説明できるでしょうか。

続けて11節を読んでみましょう。


 彼は自分のところに来たのに、
 その民は彼を迎え入れなかった。



「彼(イエス)は自分のところに来た」とは、
どういう意味なんでしょうか。

さらに12節。


 しかし、彼を迎えた者、
 そうした者たちすべてに対しては、
 神の子供となる権限を与えたのである。
 その者たちが、彼の名に信仰を働かせていたからである。



ずっと世にいた(存在した)方ですから、
人が迎えようが迎えなかろうが“いる”わけです。

でも、
そのイエスを主として受け入れ(フィリ2:11)、
ずっと存在し続けたイエス、
最初であり、最後であるイエスを(啓示1:17、22:13)、
心の中にお迎えすることによって、
そうする者すべては神の子供となることができる、
聖書が語るのはそういうことです。

だからこそイエスは、

「わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいる」
「二人か三人がわたしの名によって集まるとき、わたしもその中にいる」

と保証できる方なのではないでしょうか。

ですから真のクリスチャンとは、
自分の内にイエス・キリストを持つこと、
神の遍在性を理解している人のことだと言えます。



最初の話に戻りますが、
自分と「神」は別個の離れた存在であり、
神は遠い天(別の場所)にいるという教えは、
人を神から引き離し、
幸福感を奪い、
神の愛を遠ざけます。

そして絶えず、
ハルマゲドンが終るまで、
自分が救われているかどうかわからない、
自分が神に受け入れられているのかわからない、
そういう恐怖感を感じさせます。


神はこの世界に満ちている。
最初であり、最後であり、
存在するすべてである。
もちろん自分の中にもいて下さる。
自分はそういう至高者の神の愛のうちにいる。

聖書を読みながら、
そういう「神」の存在を理解しはじめたとき、
なんともいえない平安な気持ちになります。

クリスチャンとは、
キリストを自分の内に持つことであり、
もしそれがないのならはっきり言って聖書的には、
クリスチャンとは言えないとわたしは思います。

そのことを隠しておきたいのは、
他でもない「統治体」なんだろうけどね(-_-;)



今回はあくまで聖書的な観点から、
エホバの証人が考える「神」の存在が、
いかに聖書的でないか、
またどれほど悲しいものか、
そのことを伝えたいと思いました。

「神」とは常に存在し、
存在するすべてであるという考えについては、
スピリチュアル系の本なんかにも述べられていますが、
それについてはいずれ触れるかもしれないし、
触れないかもしれません。(笑)

聖書を読むなら、
「神の偏在性」の概念そのものが、
目新しいものでないことはわかります。
(エホバの証人の教義が変なだけで)


ここのところお堅い記事が続いて申し訳ないです。
真面目なことを語れるところも見せておかないといけないかなと。(笑)


あなたが神様の大きな愛のうちにいることを、
わたしは信じます。
[PR]
by what-tower | 2008-02-03 01:39 | JW教義その他 | Comments(23)